ビジネスアイデアコンテスト2002記念講演

「何がやりたいんだ!」  孫 泰蔵  氏

こんにちは。孫泰蔵と申します。よろしくお願いします。
実は私は初めて、いわきを訪れました。駅から少ししか歩いていませんがとても空が高く気持ちがいい街だなと感じました。もともと私は実家が九州でして佐賀県鳥栖市というとこなんですが、いわきほど、大きくなく小さな街です。すごい、ど田舎なんです。やはり最近は一応、東京を拠点にしていますけども、アジア各地いろいろとまわってまして行ったり来たりの毎日でしてなかなか実家に帰れません。ほんとになんだか初めていわきに来させて頂いたんですけど、親近感を覚える街だなというふうに思いました。
 今回が2回目(ビジネスプランコンテスト)ということでして、さきほど聞きがてらにお話をお伺いしてのですが1回目の応募件数が4件でした。ですけども今回は28件。ほんとうにそうなってくると流れがひとつ出来上がってきたということで、商工会とか市も含めて皆様の協力をするとおっしゃっておられるというふうに聞きました。これもひとつの新しいベンチャー的な取り組みだと思います。新しい動きを創って行こうとしているわけですから、この中で生まれてきた、または応募しようと応募されてきた方が何かうまくいく形になってきて、またそこで横のつながりができることで何かあたらしい化学反応が起きるみたいなことをこういう場が生み出そうとしていることが私は大変素晴らしく、お金に変えられない非常に大きなポテンシャルを生み出せるのではないかと思います。そういった意味でこういった場所で話しをさせて頂けるというふうなことでどんな話をしたらいいかなといろいろ考えて参りまして、私は一応IT関係の仕事をやってるんですけども、細かい具体的な話をしてもしょうがないので私自身が、いま30才なんですけど、8年前に自分で何かやってみようと思ったきっかけがあります。じつはそれまではやろうというふうには思ってなかったんです。こういう会社をおこそうとか。むしろ兄貴とか親父とかの(親父も地元で事業をやってきた人間なんですけど)彼らの血の滲むような思いを傍目でみていると絶対、おれにはできないと思って、むしろ自分は違う世界へ行こうと思ったんですけど。やはり、ある出会いがありまして私の世界が180度変わりました。その出会いがなければ今の人生はないだろうなと本当に思います。前半はそのことをお話したいと思います。で、その話のなかでベンチャーというもののおこる時の情熱とか、先はどうなるかわからないけどもやってみようという、ベンチャーをおこそうというときの気持ち的な粋みたいなものがすごくつまっている出会いでしたので、そのお話をぜひ、私が体験したものを皆様にも分かち合っていただきたいなと、思います。前半はそういうお話をします。
そのあと後半に入りまして、私が今までやってきた具体的ないろんな事業を立ち上げてまいりました。大小おりまぜてプロジェクト数で何十個という事業を立ち上げてまいりました。1年にだいたい5個ぐらいはやってます。毎年、ですから、たぶん30個ぐらいは手がけております。たぶん打率でいうと、イチローよりだめかな?と感じます。それでも私は奇跡的だなと思います。そういった中で、いっぱい失敗しまして少しだけ成功しました。じつは、つい最近、また新しい全くゼロから事業を開始しまして、明日(12/1)がサービスインという非常に期待をかけているベンチャーをおこしましたので、そういったもののご紹介もします。そういったものの話を通じて皆様に聞いていただきたいのは、まず前半で私が話をするのは、できるだけその時に戻って皆様に追体験できるようにお話したいと思います。聞いていらっしゃる時に、自分だったらその時どうするかなというのを考えながら聞いていただけると参考になるかと思います。きっと皆様方と私がとった行動は違うと思いますが、それはどっちがいいとか悪いとかということではなくて、それが私の個性だったんだと思います。そこはなるほどそういう考え方もあるね、ということを聞くこともできると思うし、孫はこういうふうにやったけれども、おれだったら、こういうふうにやればもっと、うまくいっただろうなということだけでもひとつ参考になるかと思います。後半の(話)私が今、手がけている事業とかやろうとしている話をするなかで、ひとつの新しい事業の切り口みたいなところをこういう考え方もあるんだなということで、ご参考になるように、こういう場所にお集まりになってらっしゃる方々ですから何か新しいことを創造する、ベンチャーをおこす事に向けて興味の高い、関心の高い方だと思いますので、そういった意味で皆様の参考になるように話を、できるだけしたいと思います。1時間ほど話をさせていただいて場合によっては、何分になるかわかりませんが、一生懸命、話をさせていただきます。情報量が多くてたぶん早口になるかと思いますが、というのも私もここのところずっとなかなか時間がとれないものでして、こういった皆様の前でお話をするというは全部、お断りしていたんです。だいぶお断りしていたので、その間にだいぶ溜まりまして、情報量が多くてたぶん早口になるかと思いますが、残り30分で皆様とディスカッションできる時間を持ちたいと思います。何でも聞いていただければ何でも答えますので、疑問とか聞きたい事とかあればメモでもとってあとで聞いていただければと思います。
それでは早速ですけど、始めたいと思います。簡単に私の自己紹介というかどんなことをやってる人間かというのを話します。うちは男ばっかりの4人兄弟でして、いわゆる孫正義はうちの次男なんです。長男がいまして年子で正義がいます。7才はなれて、8才はなれて私がいるという感じです。私の自己紹介といっても、自分のこといってもしょうがないので影響を受けた人ということで、話を進めたいと思います。実は彼は16才、高校に入ったばかりの夏休みのサマーキャンプでアメリカに行く機会がありまして、その当時アメリカに行けるというのは、僕ら田舎の人間からすると月に行くぐらいすごいところへ行くという感覚がありまして、そんな中で彼はアメリカへ行っていろんなものを、スケールの大きさとかダイナミックさにすごいカルチャーショックを受けました。それで、彼は戻ってくるんですけども、どうしてもアメリカに留学してあちらで何かを体験したいんだ、学びたいんだというふうなことを彼は思ってました。じつはその当時、父が肝臓を悪くしてまして生死の境を、さ迷ってました。長男の兄と(兄といっても16、7才ぐらい)おふくろが女手ひとつで家計を支えているという非常に苦しい経済状態でした。父も死ぬかもしれないといって、皆、不安の中で生きてたんですけども、そんな中でも兄(正義)はどうしても今、行きたいと思ってました。1ドル360円の時代ですから、仕送りして学費を払うだけで、その当時の金額で30万から40万する時代だったんです。それは大変な金額で、まず経済的にも大変だということと、父がどうなるかわからないという中で、やはり高校卒業して大学になってから行けばいいじゃないかと皆に言われて、それはそうだなと彼は思いました。でも、何かやはり思うことが、感じるものがあったんです。とにかく今、行って、今自分の感性の中で何かをつかんでこないと何かが失ってしまう気がする。と彼は思いました。それで父に兄が相談したところ、父は「お前は絶対、将来何かをやる人間だから、絶対行って来い。おれのことは心配するな、仕送りもしてやるからいっさい心配せずに行け」と言われて、兄も泣いて「じゃ、行って来る」ということで彼はアメリカにいったんです。
私はちょうどその頃に生まれたんです。で、彼はアメリカでずっと大学をでて、のちほど話しますけど、それで戻ってきて東京に行ってソフトバンクの前身の会社をつくりました。そういう意味ではほとんど、ひとつ屋根の下で暮らした経験がありません。ですけども、盆と正月に会うたびに毎回スケールアップした話が、まったく新しい話が、こんどこんなことやるんだという話がでてくるんです。それが十何年も会うたびに必ず、その前の話のスゲェと思うことよりもさらにスケールアップした話が毎回あって、全く聞いたことのない話がでてくるんです。十何年、盆と正月にでてくるものですから、とにかくいっぱいアイデアを出しまくる兄貴だなぁと思ってました。それが、自分自身が大学生になって社会人になって物心ついてくると、そのときの彼の必死さとか改めてすごさがわかってまいりました。一緒に仕事をしたとか、暮らしたということはないんですけど、とっても影響を受けました。そこをぜひ、お話したいなと思います。
何の影響を受けたかということなんですけど、彼は先ほど申し上げましたように、そういう後ろ髪引かれる思いをしながらアメリカへ行ったわけです。向こうには飛び級という制度がありますから、とにかく勉強してはやく、仕送りを送ってもらってるという迷惑もかけているということ自体が心苦しいし、むしろ自分が働いて仕送りをしたいくらいなのに、自分は無力だというふうに思ってて、飛び級の制度を活かしてできるだけ、死に物狂いで勉強してステップアップをしてはやく大学まで卒業してしまおうと。普通の感性だと迷惑をかけたくないといったら、アメリカ行ってバイトをして学費と生活費は自分でまかなっていくという感覚だと思うんです。でも、彼の場合は、そうじゃなくてそんなことやりながらやっていくと結局、アメリカで暮らしてる時間とか大学の学生でいる時間とかが長くなってしまう。だからアルバイトなんかは、いっさいやらず一日寝ている時以外は、ずっと勉強してとにかく早く一人前になって社会人になって、もっと恩返しをしたほうがいいというふうに彼は考えたんです。それで彼は一日に18時間勉強したそうです。毎日。そのときのスケジュール帳をいまだにとっておいてありまして、自分の中の自信の源というのはここにあるというんです。本当にスケジュール帳に書いてあって全部やったというふうに一度だけみせてもらったことがあります。
とにかく一日6時間は寝ないと、徹夜とかすると長丁場だから無理がきかなくなる。それで結局、効率が悪い。
だから、6時間は絶対寝る、だけど寝ている時以外は全部勉強しているというような形でやろうと決めたらしいです。当時、16才でアメリカへ行ってるわけですから、別に英語も喋れるわけでもなく、まず言ってることが何を言ってるかわからず、ましてや数学とか歴史とかいろんな勉強自体、中身もわからないということなので、普通の学生よりも何倍も、まず語学のことも含めて言ってることが理解できなくてはいけない。そこからまた、覚えていかないといけないという話で、普通の人の何倍も勉強しないと追いつけない、ましてや飛び級して追い越していこうなんていう話だと普通にやってちゃ絶対無理だというふうに彼は思ったんです。それでお風呂に入っている時もビニル袋に教科書を入れて読んだりとか、歩いているときもメモ帳とか単語帳とか覚えながら歩いていたりとか、もちろん食べている時も食べ物の前に置いたりとかして、本当にやったらしいんです。
彼は、ビル・ゲイツさんとだいたい年齢が近く、アップルのスティーブ・ジョーンズさんとか、サンマイクロのスコットさんとかいわゆるIT業界の今、世界をひっぱってる方々とだいたい同世代なんです。「やっぱり奴らはすごい。会ってみて本当にあいつらは頭がきれるな」というふうに言ってるんです。でも「おれは絶対に負けん」というんです。それは何故かというと、多分彼らも大学生のときとか一生懸命、勉強したんだろうけども、自分以上に勉強してる奴はいない、同率首位はいるかもしれないけど僕よりやるということは物理的に不可能だと言ってます。頭の良し悪し、地頭の良し悪しというのは人にあって、おれはあまりよくないかもしれないけど、それをカバーする勉強方法と勉強量でメチャクチャやった。18時間やった。何年間も。ということで、どんなにすごい人に会っても、でもおれはあの時、同じ時代の頃におれのほうが勉強してるというのが、自分の自信の源になってるらしいんです。それぐらいやったというんです。そんな中で彼は、とは言っても毎月何十万も送ってもらってるというように苦しいわけです。ということで、どうしようかなと思って、「イッパツ」あてるしかないなと思ったわけなんです。「イッパツ」あてるといったら普通だったらギャンブルとかにいくんですけど、そうではなくて発明しようという方へいったんです。ただし、勉強しないといけないから時間はかけられない。ということで一日に15分間だけ発明の時間というふうにあてて一日に一個、絶対だす!と毎日新しいのを一個、一年間それをやりつづけると言ってました。365日。三百何十個もだしていれば、どれか一個はあたるだろう。すごいシンプルな考え方なんですけど。それでやりはじめて勉強の合間に時計を置いて15分のアラームをセットして考えて。最初の一週間ぐらいは何個かでたらしいんですが、一週間も経つと人間そんなに引き出し多くないですから、だんだんネタ切れになってくるんです。そうすると、15分・・・・・あと1分しかないといって何でもかまわないという話になってきて、とりあえず、まあいいや一年一個という課題はクリアできた。だけど、どうしようかな?明日から、一年365日だすぞと言ってたんだけどこの調子じゃ、十個も達成できそうにないというふうに彼は思ったんです。それで彼はどうしたかというと、「お前どうしたと思う?」「お前一日一個だせるか?」といって僕は言われました。「だせるわけないじゃん」でもおれは、そこでブレイクスルーを生み出したんだ。それをやったことによって一日一個楽勝で毎日できるようになった「何をやったんだと思う?」と聞かれたんです。「いや、わかんない」と答えると「そこがおれとお前の頭の違いさ」と言われたんです。何をやったかというと、発明をする方法論を発明したわけなんです。
それはどういうことかというと、最終的にまとまったもの。実は私はこれが一番影響を受けているんですけど。そういう姿勢みたいなところに、とても学べるところが多いと思います。最終的に彼は、その発明を出す方法論の発明ということで、15分使ってやる方法をあみ出したわけですけども(私がちょっと脚色してますけども)5分ずつ3つに分けます。最初の5分は、何をやるかというといわゆる普通に考えるやり方です。問題解決型といっていいと思います。例えば、こういうのがこうだったらいいなあとか、これがなくて不便だなあとか、日々、歩いている中で何か、こういうのないかな?というのを自分の引き出しの中で、溜めていくんです。それをリストにしておく。何かが不便とか、もっとこうだったらいいなあとか、どうやったらできるかというのは、まだわからないにしても、思いついたものを追加しておく。それを眺めながら毎日、毎日それを意識してこれはどうやったら解決できるんだろうか?と思いながら日々、生きてる。別に忘れてもいいんですけど、ある時ふっとそれが浮かぶ。それで彼はそのやり方で思いついて発明ノートに書いていました。アホらしいと思って特許ださなかったんだけど、もしだしていたらおれは今頃、大金持ちだって言ってたアイデアがあったそうです。
それは何かというと、その当時日本では和式便所がほとんどでした。初めてアメリカで洋式便所というのを見たわけです。でも、どうやって使うんだ?それで冬、座っていて便座が冷たい!というのがあって、やだなぁと思ってたらしいんです。で、汚いし。それなんとかできんかな?ということで彼はある時、友達に「ちょっと、大至急マクドナルドへ行ってハンバーガー20ヶ買ってきて!」と言って電話したそうです。何だろうと思って友達が買っていくと、ハンバーガーそっちのけで発砲スチロールの箱をいっぱい集めて、チョキチョキと切ってテープで貼って丸い形にしました。トイレに行って便座に敷いてみて「冷たくないよ。」と言いました。要するに、発砲スチロールが断熱材になっていて、しかも使い捨てで捨てられると。使い捨て便座ってありますけど、「あれをおれは30年近く前に思いついていたんだ。でも、あまりにもアホらしいからと思ってそれは、出さなかったんだけどね。」というふうな事を言ってました。要するに冷たくて何とかならないかなと思って、世の中にそんなものなかったので、使い捨て便座というものは。
そういった形で何かいつも困った事リストみたいなものを作って、どうしたらいいかな?というのを5分間考える。アイデアは普通出ませんよね、そんなんでは。それで5分が経ちました。そうすると、次は発想をガラっと変えます。それは次に何かというと、単語帳を出しましてそれに適当に何かいろんな名詞を書いていくんです。冷蔵庫とか洗濯機とか。そうすると、洗濯機はデカイなあ、重たいなあ、これが小さく超小型で軽かったら何か意味あるかな?というのを考えるんです。ようするに既存のもの何かのものが、逆転の発想で大きいものがものすごくコンパクトだったら、すごい重たいものがものすごく軽かったらどうか?とか暖かいものが冷たかったらどうか?とか。とにかく全部それらを反転させていく、そういうふうな中で、何かおもしろいものが・・・例えば、ウォークマンなんかもそういう発想だったわけです。
それで兄は、これも出しておけば(特許を)今頃本当に大金持ちだったと言ってます。それは何かというと、マッチの中身は全部捨ててティッシュペーパーを細かく折りたたんで入れたらしいんです。その当時はアメリカでもティッシュというとデカイ箱しかなかったわけです。それがどこかへ外出するときにティッシュペーパーを持って行きたいという時は、昔は、思い出しになられるか思いますが、ちり紙といわれた頃はポケットティッシュというのは無くて、何枚か折りたたんで、私も保育園の時は、何枚か持たされてポケットの中に持って行った記憶があります。昔は、ポケットティッシュというのは無かったんです。ポケットの中に入れていると、くしゃくしゃになるし、汚れるし、すごい使いにくいなぁという中で、当時その時はマッチ箱の中に入れると、くしゃくしゃにならないと。で、出せば清潔です。こういう携帯用ティッシュ、街で配ってるようなティッシュをおれは考えたんだけどなあと彼はいってたわけです。ようするにそれは、大きいものが小さかったらという中のひとつの典型だと思います。そうやっていいアイデアが出るまで、いろんな案を出してそれが逆転されたらというような事を考える。
それから3つ目に、それでも5分でできなかったら、最後の5分ファイナルラウンドなわけですけど、これでできなきゃいかんというところで。だいたいこれをやると出るんですけど。次は単語帳を2セット用意します。それらをせーので出して、冷蔵庫、洗濯機とでて「冷蔵庫付洗濯機」。これは意味無いな、とか。もう1回やり直し、腕時計と電卓といって「電卓付腕時計」はどうだとか。ようするにランダムで出したものが組み合わさっていたらどうだろう?というふうなことでやっていくんです。5分間ずっとそれをやっていくとどれか一個はでてくる。しょうもないのものでも。というような形で彼は365日、出し続けていたんです。2年間ぐらいやったらしいんですけど、千個ぐらいだしたそうです。その中のじつはソフトバンクを作ったきっかけとなったものも、これから出てきました。その時は改良していまして単語帳も3個になってたらしいです。3個出してた時に「関数電卓」「辞書」、「スピーチシンセサイザー」はその当時開発されたばかりで大学で話題になっていたらしいんです。これらの3つが出て考えた時に、これは自動翻訳機ができるなとおもったらしいんです。それで彼はその後、基本的にはこうやればできるはずだというのはあるんですけど、技術者ではないので単に経済学部の学生なので、これを作ることはできないので、誰がほんとうにこれが作れるかどうか設計をしないといけない。ということで、どうしようかな?と彼は思ったんです。
どうしたかというと学校の教員名簿を聞きまして、コンピューターサイエンスというところをみて、〜教授、とか有名な先生たちのリストがあるんです。それで片っ端から電話していったらしいんです。こういうのを発明(自動翻訳機)したんだけど、これを聞いてもらえないか?やはりアメリカというのはとても皆さん寛容な方々でして、なんかよくわかんないけどおもしろそうだから来なさい。ということになって自分の教え子でもないのに、学生がいきなり「おれのすごい発明があるから作ってくれ」といって先生に普通「来いよ」って言ってくれるわけないんです。先生は「でも、僕はコンピューター関係だけど、ソフトウェアなんだよね。ハードウェアだったらあの先生がいいんじゃないかな?」と言って先生が先生に「おもしろい学生が来てるんだけど、何か聞いてやって」それで別の先生の所へ行って何回か辿っていくうちにモーズ博士というその当時NASAで弾道計算のコンピューターを作っていてCPUを設計したり、すごい最高峰級の方「おもしろいじゃないか?」と言ってくれて、じゃ僕の友達とかと、研究の合間でしかできないから、いつになるかわかんないよ、と言われて「それでも、かまわない。但し、やってくれるんだったら有難いのでちゃんと何時間やったか、どういうふうな貢献をしたとか控えといてくれ。もしそれが出来上がって僕がビジネス化したら、それを報いたい。事後報酬でしか払えないけど」「わかった」と先生は言って気軽につけておこうということになって「できたら彼が売ってくれるらしいよ」とかいって、その当時NASAとか何とか最高峰の人たちが面白いといって手伝ってくれたらしいです。
それで、プロトタイプが出来まして「動いた!」というのがあって彼は大学の冬休みのときに日本に戻ってまいりまして、電機メーカーに売り込みにいきたいというのがありました。それで雑誌を読んでいた時にマクドナルドの社長、藤田さんがコンピューターが何でもやってくれて生産性を高めるだろう、というのをおっしゃっていて、この人はわかってらっしゃるということで、出版社に電話して、藤田さんに聞いてほしいんですけど、というと変な読者が来たと思ったけど、コンセプトを送ったら、おもしろい若者から手紙が来て会おうという話になって、その時お会いしているんです。
そこで「僕、こんなの作ったんですけど。」といって一生懸命説明したらしいんです。
「すごそうだけど、うちはハンバーガー屋だからね」と言われて、シャープに佐々木くんというのがいるから紹介してやるよと言われて、その時専務でいらっしゃって神奈川サイエンスパークという所で、もう80才になりますけどいまだに事業をおこしてらっしゃいます。大変すばらしい方です。その方にこれは素晴らしいということで早速、作ろうということで、特許料がその当時で1億円入ってきたんですね。
(特許の報酬を得て、アメリカの先生にも報酬を支払い)
彼(正義)は残りのお金で、アメリカで会社をつくったり、それでいろいろ勉強しながら、飛び級して特許のお金の資本金でソフトバンクを作りました。
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・・・・・・・・・・・上場したあとに買収するんだよね。その後今度ナスダックジャパンというのをつくるんだよね。その後、あおぞら銀行、買うんだよね。
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小中高と十何年も行ってるのにそういう訓練というのは機会がまったくありません。で、これは自分で身に付けるしかないと思うんです。ですから今さっきの真似しろということではないんですけど、彼はいつも30年近く、新しい事を考える訓練をしてきてるわけです。ですから、いまだに誰かとお会いした時に「それだったらこうしたほうがいいんじゃないですか?」とその場でどんどん新しいアイデアが会う人会う人で何か新しい情報がインプットされると、どんどんアイデアがでてくるんです。それで、やりましょうということになって即、話が進んでいくというのが非常に多い。それはそうしてかというと、そういう訓練をしてるからだと思うんです。私が思うにすべてはやはりアイデアが大事です。最初に何かいいきっかけで、いい発想が浮かんだとします。それでビジネスプランを作ろうといって事業計画書とか作ったりするんです。そこまではいいんですけどもそれが考えれば考えるほど、やっぱり自分が考えるんです。これはもう絶対うまくいく。すごいアイデアだと。というふうに思い切っていくんです。当然、いいと思うから考えるわけですし、絶対にのめりこむわけです。ですから、1回バチっとフィックスさせてしまって、これはこれがいいんだと思ってしまいます。自分の頭の中で考えたものがすべてうまくいくはずがないんです。現実はものすごく違うわけです。ですけど、これがいいんだと押し通そうとすると、何か世の中の動きとずれていくことによって失敗をするんだと思うんです。
最初のアイデアをうめたというのは、それは素晴らしいことです。ですけども、そこから実際に何かアクシデントがあって「違う、何でだろう?」というふうに思った時にはモディファイ(改造)して「これはそういうことなんだろう」ということで、もう一回出す(単語帳を)みたいな感じで、これはこういうふうにやり直したらどうかとか、常に進化させていくというのが必要です。たとえ、ビジネスが立ち上がって、スタートがうまくいったとしても、あれよあれよという間にいっても、それが逆に後退因になってるのがいっぱいあるわけです。常にこれからの時代というのは不安定な時代です。常に進化させていかないと生き残っていけないという時代なんです。それは何故かというと情報社会だから!です。昔は右肩上がり成長で成功したビジネスモデルがあれば、それでいけるという時代がありました。それは何故かというと情報ネットワークが広がらなくて、1回みんながいい意見を持ったら、それよりももっといいやつが世の中にたくさんあるんだよというのがあまり広がらなかったんです。「〜〜だったら、もっと安く作れるよ」とか、そういう情報もいろんな企業にも入らなかったんです。今ほど。だけど、今は何かするとすぐあっという間に広がります。「それだったら、うちのほうが安く作れる」とか「質がいいものがだせる」ということで、競争相手がすぐ参入してくるんです。こっちのほうがもっといいものがあるといのがお客さんも知ることができるようになってるんです。ですから、そういう世の中では、1回成功したからといって、そこで進化が止まると、もうそこでダメになるという情報社会の典型だと思うんです。ですから、常に進化させるためには運とかで片付けちゃいけないと思います。そういう意味で私は彼から新しいものを作っていくという事業家でありたい、企業家でありたいというならば、とにかく誰よりもアイデアがバンバンだせるようにというのは、サッカー選手でいうとドリブルができるというようなもんだと、いうような事を学んだ気がします。
そういうふうな意味ですごく参考になる話だったんですけど、彼の話をしたんですが、とはいっても私はおれはおれの人生だと思って生きてたので、彼はああやって一生懸命ビジネスやってるんだけども、僕自身はそういう分野でやっていきたいと思ってたわけではなくて、むしろ彼はすごい人間としてすごい努力してるし、なかなかかっこいい生き方をしてるなと思ってたんです。そういう意味で素直に尊敬できる、本当に自分も一人前になって対等に話ができるようになりたいというふうには思ってました。ですから同じ土俵の時に勝負をしようとしても、いつまでたっても追いつけませんから違う土俵で勝負をしようと考えていて、でも何しようかな?と考えていた、悩んでいた所でした。それが大学に行きまして3、4年生になるくらいになって皆が就職活動始めるわけです。それで今まではなんとなく、のほほんと生きてるんですけど、自分が本当に社会人としてひとりで生きていくんだという所で大きな意思決定があるわけです。それで皆が就職活動して「内定とったぞ」とか言って「どことったの?」とか言ってる訳です。僕自身は実は全く就職活動していませんでした。というのは何故かというと今は就職難ですけど、僕らの時も就職難でした。ですけども、今ほどに大変でもなくて、やっぱり大学にいろんな企業が就職資料、会社説明資料みたいなやつがたくさんダンボール何箱といてくるんです。いろんな会社、うちはこんな会社ですとか見てるんですけど、何もひっかかってこなかったんです。それは何故かというと自分自身が準備ができてなかったんです。どの会社も魅力がなかったというわけじゃなくて、自分がそもそも何がやりたいんだろうというのがわからないという状況でした。僕は九州男児で育ちましたので親父には「泰蔵よ、お前も男に生まれたんだったら、一生の志というのを立てて男らしく生きて行かんといかんばい」と言われて育ったわけです。それはそうだと思うわけですけど、20年そこら生きてきて、一生の志を立てるなんていうのは、どんな志があるんだ?ないわけです。例えば、自分が15代続く歌舞伎役者の家柄に生まれたといったら背負うべき伝統があるからがんばると言えるかもしれません。100メートル10秒きれるんだったら、それはやったるでーというのはあるかもしれないです。でも、何も無い訳です。ただ、漠然と生きていたいわけでもない。やっぱり一度きりの人生だから何かに打ち込んで、おれは本当にこの事が好きなんだと言って、これをやっていくのが楽しいんだといって、しかも僕は飽きっぽいですので一生飽きない何か次々と変化があるようなものを追っかけていけて、できればやっぱりコロコロ分野を変えるんではなくて、これっていうコンセプトの中でその全力を尽くして情熱を燃やしていけるそういう充実した、ひとつしかない人生を過ごしたい気持ちはやっぱりとてもありました。ですけども、それが何なのかわからないんです。
自分が何が好きかというのも例えば音楽をやっていたので音楽が好きですけども、音楽家としてとかそういう事では無いのです。アイスクリームを好きですけども、アイスクリーム屋さんになろうとは思えなかった。なので、何が好きなのかわからないということだったんです。そういう中で実はものすごく悶々としていました。皆は就職活動して先を決めていく中で僕なんかよりも遥かに腹をくくっていて自分はこの世界でやるぞというのが飛び立っていく中で、僕だけポツンとおいて、おれはどうしたらいいんだろう?というそういう感じで、20前後過ごしていたんです。そうした時にたまたま兄が晩飯を誘ってくれたんです。それで飯を食ってる時に、
「お前今、何年生?」
「今度4年」
「もう4年か。」
「就職どうすんの?」
「それがさ・・・」と言って、悶々してるんだ。
「お前ほんとのんびりしてるな。ヤフーって知ってるか?」と言われたんです。僕は初めて大学でインターネットに出会ったのがちょうどその半年位前で、「ヤフーって知ってるか?」と言われて、1995年なんですけど今と違って、その当時のインターネットというのは、日本のホームページはあんまり無かったです。画像とかも無く灰色の画面です。灰色の画面に字があるだけ、画像とかちょっとあると珍しいというそういうホームページがほとんどだったんです。ですから、逆にそういうクリミティブだったからこそ何かストレートに感じるものがありました。それが何だったかというと、僕も兄貴のそういう話を聞いて育ってますから、アメリカってのは、さぞ、すごい国だろうと1回行ってみたいと思ってたんですけど、まだ行く事が出来なくて行った事が無かったんです。だけど、そういう人たちと友達にはなりたいわけです。だけど、そうなれるものでもないという中でネットサーフィンをしていたらアメリカの大学のホームページとかたくさんあって、論文をおいてあったりするわけです。学生の兄ちゃんのホームページがあってメールくださいとか書いてあるんです。そこで僕はピっと押して君がやってる事に僕も同じ事を研究してるから、大変面白いから友達になろうよ、お互い意見交換したいんだけど・・・というふうに僕がメールを出せばその人と友達になれるかもしれないわけです。僕は多分インターネットというメディアがなかったらこの人とは一生会う事がなくて、たまたまインターネットがあって開いていたから、こういう出会いが出来たわけです。ひょっとしたら、そこで一生の出会いがあるかもしれないと思ったわけです。その時に、これって何かすごいなと思いました。ですけど、だからといって=eビジネスやろうとは何も思いはしないんです。すげぇといって遊んでるだけなんです。
そういう中で「ヤフーって知ってるか?」と兄貴に言われて、僕はヤフーは知ってました。検索サイトとしてアメリカにあってだいたいどこかのサイト見にいく時は、ここでこうやればいいよって友達に教えてもらってたんです。「知ってる。ヤフーがどうしたの?」「お前とたいして年の違わない奴がこうやってベンチャーおこしてんだぜ」と言う訳ですよ。それはどういうやつかっていうと、もともとヤフーっていうのはジェリー・ヤンという人とデビット・ファイローという人が2人で始めたサービスなんです。スタンフォード大学で彼らはいわゆるコンピューターサイエンスの大学院生でコンピューターオタクなわけです。ビジネスをどうのこうのという人ではなくて、エンジニアで技術大好き兄ちゃんなわけです。彼らはインターネットを使っていてすごい不便だと思ったわけです。今でこそヤフーみたいなものがたくさんありますけど、その当時無くて、あるのはいくつかの大学が作った自動検索でコンピューターで拾ってくるというのしかなかったんです。それもまだまだ完成度の低いやつです。皆さんもインターネット見た時におわかりになると思いますけども、例えば「貴乃花」というキーワードを検索すると15万213件ヒットしましたとかでるわけです。それは検索したことにならないわけです。最初の1ページ見て、ないな。じゃ、次見て無かったらもうちょっと絞り込まなきゃといって、また何かうつわけです。ということは、最初に「貴乃花」と入れて検索した行為自体は何の意味も無かったわけです。コンピューターがやるとどうしてもそうなってしまいます。やはりコンピューターはどこまでいってもアホなんで人間の頭とは全然比較になりません。ですから、キーワード入れたらその言葉があれば全部拾っちゃうわけです。こっちの方が重要な情報だとか、重みづけとか価値判断ができないんです。だから十何万何千件とかなるわけです。それだと結局使い道にならないから、何かもっといい方法で検索の効率を上げる方法はないかということで僕は考えました。それで、何を考えたかというと「やっぱり人間の頭はすごいよね。人工知能だなんだといって莫大なお金かけて研究したって全然まだまだここ何十年は人間の頭脳にはほど遠い」だとするならば、プログラムだけでどうにかしようというんじゃなくてハードウェアとソフトウェアと人の頭脳。この3つを彼らはヒューマンウェアと呼んでますけども、これらをうまく融合させた事によってすごくいけてる検索エンジンというのが作れないか?というふうに考えたんです。ようするに人間が見て、これは「貴乃花」のホームページだとすると相撲のカテゴリに入れよう、それでコメント書いて類義語とかいって「貴花田」といれる人もいるでしょう、だとすると「貴花田」もひっかかるようにしよう。とにかく人間(手作業)でやるベターな普通だったらこれはダメだよねって捨てるようなアイデアをやろうというふうに決めたわけなんです。
実はそれが成功の要因でした。彼らが最初やり始めた時は莫大な気が遠くなりそうな人のパワーが必要わけです。誰もやろうとは思わない、ヤフーが1回うまくいったから僕らもやるかと競争相手が真似をするかというと、そんなアホらしいこと真似してられないんです。真似しても人間の手でしかやれない話ですから、ヤフーが先行しててそれを追いつけ追い越せとするとヤフーの何倍も何十倍も人を用意するしかないという話なんです。そうするとコストが何倍もかかるという話ですから、それは何も意味がないと誰も追随しないのが、実は最大の参入障壁になって、それでヤフーは独り勝ちしていった経緯があります。当然、人間の手だけでやりますから普通のコンピューターだけで検索するのと、意味の無いキーワードが1個入っているというだけで拾ってきちゃたというのを全部はじいてるわけなんです。そこで、人間がこれは意味のある情報だといって編集したものだけを、まず検索するから何かいいサイトがヒットする可能性が高いということでヤフーは人気がでていきまして、そうすると皆がアクセスするようになったというところなんです。
彼らは大学のサーバーを、大学院生くらいになるとある分だけは自由に学生が使っていいですというコンピューターがありますので、そこの中で申し上げたようなコンセプトで作ってみようということで作ってたんです。とりあえずプロトタイプが出来たので「みんな、使ってくれ〜」と言ってメールとか回したんです。そうしたら世界で初めてのものだったので、これは便利だと皆が言いだして、こんな便利なサイトがあるよといって電子メールで口コミで広がっていったんです。そうするうちに全米からこのサーバーにどんどんアクセスをするようになりました。彼は京都にスタンフォード大学のスタンフォードセンターというのがあるんですけど、そこに1年間だけ留学をしていました。彼らは大の親日家でして、特に相撲がお気に入りでした。そこでサーバーが2台あったんですけど、この学校のサーバーに「曙」と「小錦」という名前をつけてたんです。実は曙と小錦というサーバーは、その当時大変、世界的に有名でした。皆がそこにアクセスしてくるという感じでしたので。そして今のヤフーのプロトタイプになるようなものを見に来てたのです。そこで、そうこうするうちにある日、スタンフォード大学の回線がパンクしてしまいました。管理してる先生が見て回りますと曙と小錦に全部、集中していることがわかるんです。「何やってんだ君たちは?いいけども、みんなこうやって集中しちゃうと他の先生や生徒たちが使えなくなるから出しなさい。自分たちの所でやりなさい」と言われて、しょうがないから、けど貧乏学生ですからお金が無いわけです。とりあえずパソコン買ってきてそれにプログラム自体はサーバーに移しました。ですけど、専用線をひくお金が無い。(その当時高かったので)彼らは「出せ」と先生に言われて出したんですけど学校のキャンパスの向かいに住んでいたので移動するのが面倒なので研究室に入り浸りだから、学校の隣に家を借りてたらしいんです。それで学校から回線をずーっとひっぱりまして家まで線ドロボーしてやってたんです。ネットワークはもともと一緒なんですぐばれまして、それでまたダメだと言われて困った訳です。彼はそれは1銭にもなってる訳ででもなくて、ただ面白いと思って作り始めたら人気が出たという、普通だったらやめると思います。というのも友達にどんどん手伝ってもらってみんなで登録してある程度人気がでてからは「登録してくれ〜」と来るわけです。そうすると、5人ぐらいで手伝ってもらっても1日1万件ぐらい溜まってしまうということになってしまいました。それで「できません」と言ってやめてしまうのが普通ですけど、彼らはそこで「これはやめるわけにいかないんだ」と固くそこで決意したんです。
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それで、さっきの話になりますけど「お前、ボーっとしてるな。お前に対して2、3才しか違わないやつがジェリーってやつなんだけど、彼はこんな事やってすごいんだぞ。」という話を聞いて、それはすごいと思いました。彼らに会いたいと思いました。私は色々兄に対して提案をしまして、ソフトバンクにはインターネットに詳しい人は誰もいなかったんです。もともと、大学で発達したものだったので、僕はちょうどその時、大学生でインターネットはもちろん使っていて周りには詳しい人がたくさんいたんです。ですから、ヤフージャパンを作りたいんだと彼は言ってたので、僕の周りに詳しい人がたくさんいるからそういう人たちを集めて手伝うよ、しかも普通に業務委託するとすごく高くなるだろう?だけど僕らがやればそういう意味でも安くなるし、僕らはお金で動くというよりは面白い所で動くからソフトバンクとすればコストも抑えて作れるから、尚且つインターネットを日々使ってて思うんだけども、アメリカのヤフーをコピーして翻訳すればいいといってもんじゃなくて日本のユーザーのために、どんなふうなものを作ったらいいかというものを作ったほうがいいんじゃないですか?ジェリーさんが人類のためと言ってるんだったらビジネスとしてやるんじゃなくて柔軟なクリエイティブな発想も含めて提案をする。そういう中でやるから「それがいいね。んじゃお前インターネットバリバリなやつ何人集められる?」と言われたんです。彼の性格をよく知ってるんで、風呂敷をちょっと広げないと食いついてこないんで「100人ぐらい軽いね」と言ったら「そんなに集められるの?じゃお前中心になるメンバー集めて来い。ジェリーさん来週来るから」ということで僕は初めてジェリーさんにお会いしてミーティングに参加したというのが初めてのビジネス体験であり、ベンチャー体験だったんです。
今、考えてみるとヤフーの方々というのはアメリカでも20世紀最後のアメリカンドリームと言われていたんです。そういう中でシリコンバレーのハイテクベンチャーのしかもフロントランナー、トップランナーの人たちのしかも連明記の時に僕らと同い年の人たちで、フィーリングもよく似てる中で、お会いできたという所が僕にとってすごくいい体験だったと思うんです。それで彼らのオフィスを訪ねたんです。会社もまだ30人にも満たってなかったです。年商はどれぐらいですか?って聞いたら一年経ってないから年商ないと言われました。部屋も小さな部屋だったんです。入ると死体置場かと思いました。何故かというと皆、徹夜してやってる訳なんです。狭いから寝袋に寝るしかないんです。しかも狭いんでキレイに並んで寝るしかないんです。そうすると死体置場のような感じの所でやってるという事なんです。彼らは楽しくて楽しくてしょうがないと言ってやってるんです。お金も欲しいけどやってる事が今楽しくて自分でこんな楽しい事、仕事にしちゃっていいのかな?というふうに言ってました。
これからヤフーはどうされるんですかって聞いたらば。
これからヤフージャパン作るでしょ?今度ヤフーコリア作る。そのあとオーストラリア行ってヤフーオーストラリア作る。
1996年夏ごろ、アメリカにもどって新しいサービス、ヤフーファイナンスを始める。そのあとイギリス行ってヤフーUK作って、ドイツ行ってヤフージャーマニー作って、スペイン行ってヤフースペイン作って、フランス行ってヤフーフランス作る。これが今年の予定と彼らはヤフーワールドツアーと呼んでいました。僕はローリングストーンズみたいでかっこいいなと思いました。今回のジャパンツアーは君たちが頼りだからと言われたんです。僕らは単なるペーペーの若者ですからアルバイトでもできればと思ってるわけです。でも、君たちが頼りだよと言われたわけです。どうしてかというと、もともと僕らもこういうのがあったら便利だと思って学生で集まっていいなあと言って作ったんです。それで皆がああいうのも入れてくれ、こういうのも入れてくれと言って増やしている訳です。君たちが日本のユーザーなんだと、だから君たちが欲しいというものを作ってくれ、ヤフーというフレームワーク(枠組み)はあるけれども、遊んじゃっていいからね。ソフトバンクの方々もいいけれども彼らはプロフェッショナルビジネスマンだから、君たちこそユーザーだから、君たちがいいというものを作ってくれ。
僕は手伝いのつもりでいったのに君たちこそ作ってくれと言われたのがすごく嬉しかったですし、彼らがワールドツアーでもともと世界中、旅行するのが趣味だったんだけどヤフージャパンができるなんて君たちと出会えて本当に嬉しいよと言ってくれました。
ミーティングなんかもメールで24時間体制でしてましたんで、いつもこんなんですか?というとまあ山登りに例えますね。
皆で山登りの競争をしている。皆が3合目にいる時に僕らは先に5合目についた。でも3合目にいるマイクロソフトとかライコスなんかもどんどん出てくるんですけど。
先行してるからといってそこで立ち止まっちゃダメだと、先行してるからこそ先に決めなきゃいけない。何故かというと3合目の時は地平線の向こうは見えなかった。5合目に行くと地平線の向こうが見えてくる。そうすると地平線の向こうが曇ってピカッとあってこれは崩れるなと、天候が。だとしたら大至急7合目まで全力で登るか、しっかりここに停泊するか、どっちかというのは見えるから決められるんだ。3合目にいた人は見えてないんだから、だから一生懸命登ることだけ、天候が崩れるとも知らずに。だから先行してるからこそ誰よりも先に決めなきゃ先行者のメリットが得られないんだよと言われたんです。ヤフーの時言われたのは24時間ルールというのがあるんです。とにかく皆いちいち会ってミーティングなんかやってられないからメールでレポート出すしかないと、あがってきたらそれを見て24時間以内にイエスかノーとかいうのを、ノーとかいうのをただノーと書くな。じゃなくて、この条件が満たされればイエスですよと、それが今満たされてないからノーですよというように満たされる条件を出せ。それをもらった方もこの条件が満たされたらイエスですよと言ったんだったら満たした時に満たしたよという報告だせば、じゃ進めていいですか?とかいちいち聞くなと言うんです。常にこの返事は24時間以内に必ず出せ!ゴルフしてても日曜で遊びに行ってても必ず何か来たら24時間以内に出すとそれが出せなかったら人は、その時点で無条件イエス。何故かというとその人が出さないという事で仕事が止まるというのが許されないから、というふうになってる訳です。無条件イエスというポカを3回やっちゃった人は4回目から1回につき罰金5万円と言われたんです。自腹です。募金箱に入れて祝賀パーティーの時に皆で飲む時に使います。いつもこんなふうにされてんですか?と言ったら、さっきの山登りの話をされて、だからもうとにかくスピードが勝負なんだ、これがシリコンバレー時間だよと言われたんです。昨今、日経新聞とか見てても暗い記事ばかりで何か決めきらん、構造改革でも何でもいいですけどとにかく決めきらん、それに比べてヤフーの熱さというのか、スピード感は全然違います。
シリコンバレーの凄いベンチャーとかは皆そうです。やっぱり世界中から来てますから。
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彼らもGパンでヨレヨレのシャツで普通、日本に来るか?と思いながら、もうとにかく楽しくてしょうがないといってアメリカンジョーク言いながら、とりあえず決めた内容が何百万、何千万動くようなことバンバン決めてやってるんです。そういうのを見て正直ジェラシーを感じるくらい羨ましかったです。彼らみたいにすごい楽しく、自分がやりたい事をやって、しかもそれが世界中の人たちから、これは便利だと言って毎日毎日ユーザー数が倍倍といって伸びて、昨日100万ページだったけど、今日200万超えたとかその当時言ってたんです。そういうふうなところでみんなに指示されてヤフーって便利だよねと言われていて世界中旅行できて、またいろんな出会いがあってまたいいものが出来て、お金も儲かって、また新しい事にチャレンジできて、ジェリーさんたちの人生はさぞや豊かで痛快で楽しくエキサイティングなんだろうなと思いました。出来る事なら僕もそういう人生を歩みたいというふうに思いましたし、羨ましくもありました。ですので、最初お会いした日にもカルチャーショックを受けてから、その日、実は興奮して眠れませんでした。僕と一緒にいた人たちも眠れなくて、次の日、俺たちもなんかやろうよ、と僕がふっかけたんです。それでファミレスに集まっていろいろ話してるうちに紙のシート裏返して、あれとかこれとかコーヒーおわかりって言いながらずーっといろいろ考えて、それでヤフージャパンの立ち上げに参加するという所から、実は僕らもどうやったらいいものになるかとか、アイデアを出してプレゼンテーションしたんです。そうすると、「君たちに丸投げしたいんだ。個人だと面倒だから会社にしたら?」と言われたんです。じゃ、作ろうと言ってヤフージャパンの設立に参加して、自分たちも会社を作ったという事なんです。
そのあと、いろんな事ができるだろうという事でアイデアがたくさんありました。しかも、僕らはお金が全くありませんので、お金ゼロでできる仕事しかやらないという事でアイデアいっぱい出して5、6個のアイデアに集約されたんです。最初4、50個だったのを4、5個くらいに選別しまして、しかもそれは全部1個1個はお金がなくても出来て、お金が入ってきた時にぐるぐる回していくことでビジネスとして成り立というようなものをやろう。例えば、その当時、ウィンドウズ95というのが出たばかりだったので大ブームになっていたんです。サラリーマンもこれから覚えなきゃいけないという中で、学生は学生でパソコンなんか趣味でやってるけどもそれを教えて、家庭教師なんかに。それこそ机1個と電話があればできるって世界ですから。
学生は学生でいくらでもいますから確保して、各企業に行ってWindows講習をやるってことを出して、あと教室で1回教えた後に個別フォローが欲しいというところにはオプションメニューをつけさせてもらって、そういう類のものを5〜6個考えて、これをヤフーの後でやろうということになった。
会社を作るにはどうやら資本金がいるらしい。という事がわかって有限会社を作れば300万円いるんだ。でも300万円なんかはない。それで親父に相談したら、「俺が出してもよかばってん」と言って「お前が自分でやりたい事のビジネスプランを書いてそれをおれが知ってる事業をやってる社長とかに紹介してやる。その人たちに相談してみろ。僕はこういうことやって儲けますとか。自信あるんだったら提案しろ。これが本当に有望だったらその人はお金を貸してくれるかも知れない。それぐらいの事でもなかったら、やって失敗するぞ。いい機会だからやってみろ。」と言われまして、それで元手無しのプランというのを考えたんです。それで、僕はあんまりペコペコしなかったんです。意地でもしないぞって、その時つっぱってて思ってたんです。何故かというとお金は1銭もかからない。お金は1回貸して頂きますけども、それは返せと言われたらいつでも返せるから。若者にチャンスをください、金利分ぐらいはお返しできますから、それぐらいは(懐が)痛まないでしょ?とお金さえ持っていらっしゃればと、いうふうな思いがあって堂々と言いにいったんですね。
そしたら何か面白いじゃないかと。有限会社より株式会社のほうが通りがいいから、じゃあ2000万円貸してあげるからやってみなさいと言われて。
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それで実際どんな仕事をしたかというと、ヤフーをやっていて一日16時間くらい毎日インターネットを見ていたんですね。私は1995年の暮れから年明けにかけて、その当時あった日本語のホームページを全部見ました。3万5,6千くらいだったですね、その当時は。ですからその当時のホームページは全部僕は肉眼で見ました。ですからその当時僕以上に日本のホームページを知っている人はいないと思ったくらいですね。
それが妙に自信になりました。
それから毎日16時間くらいインターネット見てますと、インターネットでこんなサービスあったらいいなとか、こんなホームページ面白いぞとかそういうことがいっぱい知ることが出来たわけです。その当時Javaというのが話題になっていて、その当時一緒に手伝っていた人たちが卒論(Javaの研究)を書かなくてはいけないということで忙しいと断られたんです。Javaのアプリケーションとアプリケーションが通信をしながら作動するプログラムを作って研究して分散処理がどうのこうのとかそういうことを言っていたんですね。そのプログラムはそういうことが出来るという検証ができればいいのであって、何のためのプログラムかというのは何でも良いわけ?と聞くとそうと答えるんです。だったらこういう内容でそのプログラムを作らないかと持ちかけたわけです。
一石三鳥プランなんです。それで作ってもらったらあなたはそれで卒論を出せると、一鳥目。二鳥目はそのプログラムは僕の要件を満たして作られているわけでそれをソフトウェアとして出そうと、そこに誰々作と作った人の名前を入れて、これは俺が作ったんだと自慢できる、これが二鳥目。三鳥目はもしそれが売れたらばみんなで山分けしようと言ってて、そしたらお金が入るかもよと言うので、どうせ卒論書くんだったら、こういうふうなのがよくない?それはそうだね!と言って、それで友達にも皆、声かけてみるわと言って、そいつが声かけてくれて、その当時JAVA学会の博士とかの方々で、皆そういう所で発表してる方たちがいる、周りに僕の所でかかわってくれてたんです。ソフトを作りまして、出したら、友達がやっとモノができたと言ってヤフーの時も、僕らもアメリカのヤフーと一緒で死体置場のような感じでやってたんです。それで、ソフト屋もそういうノリでやってますから、それで作ってしまった訳です。日経新聞にマーケティング志望の電通に行くと言う奴なんですけど、そういう時はプレスリリースとか出すんだよとか言われて、ファックス出してみようということで、その日1日来るかな?と思って待ってたんですけど、来なかったんです。やっぱり無理か?と思ってそれで考えていましたら、かかって来なかったんで諦めていましたら、朝方まで最後の作業やっていたら、朝方寝て、そしたら朝方電話がかかって来て、日経新聞ですと言われたんです。入りませんと言って、切ろうとしたんですけど、記者ですと言われて、それで日経の方が来られて、載りまして学生がこういうベンチャーおこしたと言うんで取り上げてくれまして、それからジャンジャン電話がかかってくるようになって最後にNEWSWEEKの英語版までいって、その当時の僕らは、こういうメンバーでやってたんです。(写真を見せる)僕も髪の毛があったんですけど・・・
そういう感じで始めまして、それで最後の方になりますけども、大幅に時間をオーバーしちゃってますが、私は最初インディゴという会社作りました。そこから、なんでもやりますと言ってやってたんです。何でもやると言ってるうちに、お客さんからのニーズがいっぱい出てきて、そうするとどうもこういうニーズって皆、同じような事おっしゃるなとか、そういうような事もまた別な所で同じ様な事でおっしゃるなとか、そういう仕事いくつか受けていくうちにノウハウも溜まってきた。そうするとこの仕事というのは、ひとつの会社、事業として立ち上がって専門化させても、面白いんじゃないか?というふうになってきたんです。細胞分裂のようにボコっとスピンアウトさせて、させる時にそれだけじゃ面白くないんで、ちょうどこういうビジネスをやりたい、でもノウハウが足りない。お金はあるけども。僕らはお金はないけど、ノウハウはあります。じゃ、一緒に合併会社でやりますか?というふうな事で、いっぱい会社を作っていくというような事をその後、やるようになりました。そのうちに持株会社制に移行出来る事になったので、今はインディゴ・ホールディングスという持株会社を作っていてインディゴという会社もその中のグループ会社として、いろんな事をやる会社という事でどんどん広がってまいりました。下の段にあるのは、これと同時に一番上にあるのは私の個人の財産保全会社、インディゴ・ホールディングスの株を持っている会社なんですけども、そこから1個出す形でアイシーズというベンチャーファンドを持ってまして、単にお金を出すというんじゃなくて、私がこうやってやってるいろんな事業と、有望なベンチャーさんとか、お金でも協力します。だけど、私たちとっても先方にとっても、お互い協力するとすごいプラスが多いよねという所にだけ、つまり我々と貢献できる、我々にとってもプラスにできる、というような所にだけ出資をしていくようなベンチャーファンドを設立してそれで出資していく、それで私はいろんな肩書きがあります。今は取締役だけで17個やってます。役員会にでるだけで、大変なんです。そのおかげでいろんな会社のビジネスとか経営とか新しい情報について短期間でものすごく吸収する事が出来ました。
ITバブルがあった時に(私は上場しない言われたんですけど)兄貴の会社が大暴落して、このヤロー!金返せー!と株主総会で言われて、そういうのを見てビビッてましたので、やめとこうと思ってました。本当に実力がついて、本当にお金が必要で、それはちょっと借りるとかいうんじゃなくて本当に大きな規模で勝負をする時に、その会社が有望で株主を裏切る事がないと、いうふうな時しか上場はしないと決めてるんです。今の所はまだ、そういうのがないので上場してないという事なんです。そういう形でやってきたんで特にITバブルの痛手は受けなくて済んだのです。ただ、今こういうご時世なので、やっぱりみんな苦労してまして昨年の暮れから今年の前半のかけて、私もリストラなんかしなくてはいけない。ものすごく苦労しました。大事だと思って皆でとってきた人とか組織とか大きくしてきたんですけど、刻々と環境は変わる中で、前あった事業モデルが成立しなくなってきてるんです。具体的に僕らの分野でいくとブロードバンドというのが出てきた事によってビジネスの構造とかテクノロジーがガラリと変わりつつあるんです。前はホームページを作るという事で仕事になっていたんですけど、ホームページを作るという事では仕事にならないんです。ですから、変わらなきゃいけないんですけど、変わるんだといって変えていってるんですけど、中には変わりきらない組織とかあったりするんです、どうしても。そうなると、リストラクチャを変えなきゃいけないんだと言う中で、何人かの人には配置換えをして吸収しようと思うんだけど、その中でもどうしてもミスマッチングをしてしまう人がいる。そうすると申し訳ないけども・・・というような形で言わざるをえない。ものすごく苦労しました、もう二度とやりたくないです、リストラは。
いろいろ苦労しながら新しいシフトへ移ってきたという事で、僕の中では今まで7年間やってきて8年目に入るんですけども、今までの7年間がエピソード1、第1幕、これから第2幕だというぐらい大きな変化が私の所に訪れていて、その訴求戦法となるのが、新しく立ち上げましたガンホー・オンライン・エンターテイメンツという会社なんです。僕はどちらかというとコンピューターのソフトウェアとかシステムとか、どちらかというと技術寄りの、しかもお客さんは法人がお客さんという、コールセンターとか、そういうビジネスをずっとやってきたんです。今度は逆にオンラインゲームというものを一般の中高生とか、学生とか若い人たちに提供するというビジネスをいきなりやる訳です。今まで消費者金融に勤めてた人がケーキ屋さんやるみたいな、そこまで違わないかもしれないですけど、ITといえばITですけど僕にとっては全く未知の分野でした。ですけど、それをやる事に決めたんです。このまま今までの延長でやっててもしょうがない、第2の創業だと思って始めました。何故これを選んだかというと日本にもブロードバンドの波が来ようとしています。私はソフトバンクがやってますヤフーBBというプロジェクトにもかなり関わっておりまして、ヤフーBBの販売とか、マーケティングとか、コンテンツを集めて来るとかいうことをプロジェクトチームの中でもやっています。
つい2ヶ月位前までは1日あたりの新規加入者というのが2千人、3千人だったんです。ですから1ヶ月にすると30日として5、6万という所が増えていくという感じだったんです。今は1日に確実に1万5千人を超えてまして、多い日は2万を超えます。ですから1ヶ月50万ぐらいヤフーBBユーザーとして入ろうとしています。約10倍です、2、3ヶ月のうちに。今まさに放物線の急カーブを描き始めた所なんです。それは何故かというと特別何かプロモーションをやったという事ではなくて世の中に普及率10%の法則という経験則があります。携帯電話とかATMとかクレジットカードとか、そういうサービスが普及する時というのは全世帯の10%の普及率が競争相手も含め全体で超えると急激に伸び始めるというのがあるんです。それでブロードバンドの時代にどういうのが来るんだろうなぁとう時に、韓国というのはやっぱりブロードバンド化がすごく先行しています。ADSLが全世帯の7割を超え8割近くきています。日本は今、4千5百万世帯ありまして今、6百万世帯です。わずか十何%です。それに対して向こうは80%近くです。遥かに進んでるんです、ブロードバンド化というものが。ですから、韓国に見に行きました、いろいろと。2、3年後の日本のブロードバンドの環境が韓国にあるんじゃないかと、あそこでは今、何が、流行ってんのかな?というのを見に行こうと言って見に行ったんです。それは遊びみたいなものでフラフラ見に行ったんですけども、その中で私が見たのはビデオチャットと、オンラインゲームがすごい流行ってる事がわかったんです。
NCソフトという会社がありまして、リネージュというゲームをやってます。この会社は4年前に出来まして3年半位前からこのゲームを韓国で提供し始めました。月額3千円するんですけどもユーザーが50万人います、韓国だけで。去年の年商が売上げが125億円。税引き前利益が80億円というおそろしい会社があります。それはマイクロソフト以上の収益率です。今年はもう、台湾だとか中国だとかいろんな所に進出してましてすごい急成長を遂げてるんですけども、このゲームが何故そんなに流行ってるかというと、そこに世界があるんです。今までのゲームというのはコンピューター相手にファミコンとかやる世界でした。これに対してこれはオンラインゲームと言いまして、インターネットを通じてやります。ひとつのサーバーに5千〜1万人という人が入り込んできて、その中で皆が主人公という形で、皆とコミュニケーションとりながら冒険したり、その中に店を持ったり、城を建てて城を征服したり、軍隊を作って主従関係を持ったりとか、ドッグレース場があってその中で賭けをしたりとか敵がいるんで皆で倒しに行くぞとか、いろんな事ができる、終わりがないという、そういうタイプの新しいゲームなんです。ここに行くとコミュニティがありまして毎日会わないといけない。特にこのリネージュというゲームは君主と騎士という概念がありまして、お互い動揺すると王様と家来みたいな、親分子分の関係になれるんです。そうすると例えば敵を倒します、そうすると親分とか財宝を持つんですけど、家来に分配していくんです。とはいっても、人と人が会うわけですから、お前おれの家来になれと言われて、やなこったというふうにもなる訳です。ですから実際に人間としての包容力がないと誰も家来になろうとは思わないんです。そういう世界がありまして、大きな国になると部下が千人を超える人もこの中におりまして、実際そういう人たちはやっぱり現実の世界でも社長さんだったり政治家だったり、人をまとめる仕事をやってたりする方が、そうらしいです。そういう人達がついに50万人がそこの中で生活している、ある意味、いわき市よりデカイぞというような感じです。
私たちは台湾でも同じ様に大成功している会社がありまして、これは面白いなと思って、日本でもできるかなということで考えたのがこういうビジネスモデルでして、何かというとゲーム会社はゲームが作れる、僕らはゲームが作れない、だけどインターネットでサービスを提供する時の、課金システムであったり、お客様対応だったり、サーバーを調達したり、インフラを整備したり、そういうゲームの周辺にあたる部分というのを、僕は用意出来ます。逆にゲーム会社は、ゲームは作れるけどもインターネットなんて今まで関係なかったから、あまりそういう技術者もいないんです。そういう設備もない。であればゲーム会社に私たちが貸します。私にライセンス下さい。我々のリスクで市場に出してく、サービスを提供します。それで、収入が入ってきたらロイヤリティを売上げのシェアをしましょう、という事でどうですか?あなたたちはリスクないですよ。リスクが無くて、ゲームさえ面白く作れば、市場広げられて儲かりますよ、と言ったらゲーム会社は喜ぶだろうなと思ったんです。これはどうですか?と聞きに行ったら、これはいいと、それはいけるなと思って私は、そういう部分を用意、今まで作った会社の中で持っていますので、始めましてラグナロクオンラインというゲームを韓国から持って参りました。これをやりました所、大ヒットしましてユーザーの伸びなんですけども、まさにウナギ登りで人数が増えまして、百万人近くいきました。
実は明日(12/1)有料化なんです。今日こんな所にいる場合じゃないんだと言う話もありますが、ちゃんと指示はして来ましたので、徹夜2日目に入ってますけど、うちのスタッフ。今の所10万人位がすでにお金払い込んでくれてまして、月額1500円です。採算はここだけの話ですと4万5千人位いると採算とれるというラインだったので、採算ラインには無事のりまして、立ち上げとしては成功だなと思うんですけど、今こういうビジネスをやり始めました。僕は今までゲームをやっていたかと言うと全くやっていません。ゲーム業界知りませんという所なんですけど、それで最後結論になるんですけども、やはり面白い事をやりたい、とにかくせっかく一度きりの人生だから好きな事をやりたい。それをやるためにはどうすればいいか?というと全力で考えようと、その全力の熱意に皆も、それだったらいけるのかも知れないと言って、じゃ手伝うよと言ってるうちにそれが現実のものになっていくんです。ですから、それは面白い、世の中にないね、だけどすごくいいわ、と言ってくれるアイデアを考えましょう。それもしかも、自分の好きな事、儲かるからじゃなくて、自分の好きな事に中で、そういうものを考えましょう。そうすると面白いから手伝うよという人がいます。その人達がどうやったら、巻き込んでいく時に、どういうニーズを持っているのか?考えて、そういう人達が喜ぶような事をやってあげましょう。その中で、採算が合うためには、どういうビジネスモデルを組み上げていくかということで、ベンチャーというのを作っていけばいいと思うんです。ですから、もう一回繰り返しますと、自分の好きな事、しかも他の人がやってる事やったって面白くないです。新しい事やりましょう、そういう事をやっていれば、大きな事じゃなくてもいいんです。小さな事でもいいから、いちご大福というのを開発しました、というのも素晴らしいと思うんです。そういうふうな事を皆がひとりずつやれば、日本はあっという間にすごい社会になります。こんなに景気が悪いだのなんだの言ってますが、だから、日経新聞見るなと言いたい、あんなの見ても意味が無い、何故かというとアレ見て僕ら新しい発想浮かびますか?気分が暗くなるだけです。日本は大丈夫か?という言葉しかでないです。情報源として入れるだけならいいですけど、アレを見て意気消沈するくらいなら見るなという事を言いたいんです。とにかく皆がひとりひとりが新しい事、一歩ずつでもいいから、ちょっとずつでもいいから、あっという間に日本は、素晴らしい社会が復活できます。是非、頑張りましょう。大幅に時間をオーバーしちゃいましたが、どうもありがとうございました。

(質問)
面白いことを各企業、ベンチャーがやって素晴らしい日本の社会が来るという結論ですけど、先生がいらっしゃる素晴らしい日本の社会というのはどういう社会かな?と言いたいんです。オンラインゲームというのをどんどんやっていけばベンチャー企業としては、楽しく、お金も儲かるけども、それを=素晴らしい社会なのか?というギャップを感じます。
(回答)
オンラインゲームだけにこだわってるわけじゃないんですけど、今はこだわってます。それは何かというと、このゲームはゲームでないです。ここに社会があります。ここにラグナロクの中に6万人位の人がずーっとアクセスしてるんです。そこに行くと5〜6万人の人がいましてその中でいろんな、例えばオークションみたいな売買してる人もいるし、お友達を探していて一緒にお友達になりましょうというのも、毎日毎日生まれてるんです。ただここで、皆さん、はいどうぞ!と言ったって誰もお話ができないけども、ゲームというひとつのルールごとがある事によって活発にコミュニケーションができるんです。その中でいっぱいコミュニティが生まれて、多くの人達がいろんな形で新しい人と出会っていけるというふうな輪になってるんです。僕はそういうコミュニケーションの場が提供できているという事が、オンラインゲームのすごい面白い所があると思っていて、それも先ほどのインターネットの最初、感動したメールくださいというレベルじゃない、コミュニケーションを活性化する場としてすごく機能してるなと日々感じるんです。
ですからゲームとして見れば単なる遊びだけれども、コミュニケーションの場として見ると、どんなインターネットの掲示板よりも、非常に活発なコミュニケーションの場になってまして、しかも誹謗中傷とか、ほとんど無いです。それは何故かというとこの世界が、とてもほのぼのしているからなんですけども、何か困ってる事あれば皆、助けてくれるよいう人ばかりの空間になってるんです。文化として素晴らしく育ってると思うんです。そういう意味で、ひとつ価値がある、将来、僕はこういう空間の中に本当のeコマースとか、楽天みたいなものを、のっけてきて店に入ると、物が買えたりとか、その中でメール、文章のやりとりが出来たりとか、というふうなものをどんどん足していく事によってサイバースペースみたいな、バーチャルワールドみたいなものを作りたい、そうする事によって人間は、どこかの心理学者が言ってたんですけど、一生で2、3万人の方に出会うというふうなことを現実としてあるらしいんですけども、こういう場があれば30万人に会えるかもしれない、そうすると自分の本当の出会いたかった人に、より出会える可能性が高まるじゃないか?いやな思いもするかも知れませんけど、いろんな人がいますので。ですけど、そういう機会を増やしていけるという事に価値があるんじゃないかというふうに思うんです。日本の社会がよくなるというのを、どういうイメージを持ってますか?というと、何かひとつこういう社会というのじゃなくて、自由の社会というのが僕はとてもいいと思うんです。いろんな人にチャンスが公平に開かれていて、やりたい人がやったら、努力をするとその事ができる、しょうもない話の引っ張り合いとかジェラシーとか、チャレンジができるという社会で、しかもそういう中で、いろんな新しい取り組みをしていく、世の中がよくなっていくという事がおこるアントルプレーナー社会というのが、私はいい社会なんじゃないかなという感じに思っています。

(質問)
危険性は?

(回答)
アントルプレーナー型社会になるには、インフラもあればあったでいいのですが、私が申し上げたいのは皆さん、ひとりひとり私も含めて、新しい事にチャレンジしようという事が一番の近道だと思っているので、是非みんなで頑張っていきましょう。
もうひとつ、注意すべき点は、世の中はいろんな人がいるので情報社会の怖さだと思うんですけど、個人情報が流れたりとか、誹謗中傷の噂が広まっていったりすることによって社会的に抹殺されていく危険がということとかですね
もしくはその人の情報が漏れてしまうことによって大変な精神的被害をこうむるとかが起こりうる。
そこあたりは自衛していくしかない部分ですので。
やはりそういうところにまったくタッチしていかないか、関わるんであれば無知でいないようにしよう。自分で調べたり勉強したりしようということがある程度必要です。
もちろん私たちもそういうものが減るような仕組みづくりをすることに一生懸命になろうと思いますが、そういうところが非常に怖いです。

以上
ビジネスプランコンテスト2002記念講演
2002年11月30日